早いもので・・夫がなくなって❢
来年の4月に6回目の命日を迎えます🌟
お教室をはじめるときには❢
K先生と2人ではじめました🌟
とくに❢ 年末年始にかけては❢
たくさんの思い出がよみがえり❢
優しくて暖かい気持ちになったり❢
切ない気持ちになったりします🌟
今日は・・K先生のブログから🌟
ひとつの記事をご紹介します🌟
長く株をしていたK先生は❢
当時・・Yahoo掲示板に❢
「ベトナム戦争と私」というタイトルで❢
エッセイを12回に分けて投稿❢
そのエッセイを改めて❢
Yahooブログに再掲したものです🌟
※Yahooブログのサービス終了にともない❢
FC2ブログに移行❢ 現在は限定公開❢
・・となっています🌟
ベトナム戦争と私(第三回)
…帰郷
実家に戻ると、プリンストン大学で数学の博士号にむけて勉強している兄も夏休みの休暇で帰郷していた。後で述べるが、私は徴兵を拒否するためにカナダのトロントに6ヶ月ほど逃げていたことがあるが、この兄はいつも私のモラル・サポートの源だった。
厳しい父も母も、私を暖かく迎え入れてくれ、ベトナム戦争と私がおかれている現状について兄と夜遅くまで語り合った。兄は2年前の1966年にバークレーを卒業したのだが、その頃、大学院に行く場合は徴兵が免除されることが多かったようだ。それから2年の間に戦争が激化して、より多くの兵隊を招集する必要があったのに間違いない。
私は、ベトナム戦争には係わりたくなかった。死ぬのが怖かったのか、他人を殺すのがいやだったのか、この戦争に荷担したくなかったのか、自分自身の心も解らなかった。兄は、私自身の考えを整理させようと努めていたのだと思う。
結局、命令通りにワシントン州のシアトル市近辺にあるルイス基地に行き、何らかの方法でベトナム戦争にいかなくてもいい方法を見つけ出そうと私は決めた。もし、総ての試みが失敗に終わったならば、シアトルはカナダの国境に近いので再び、カナダに逃避することに私は決心した。
一週間の休暇が過ぎ去り、飛行場に見送りに来た父母と兄の表情が、笑いながらも険しかったのが強く印象に残っている。飛行機に乗り込む時、何か言いたげそうな父であったが、父の顔を見たのはこれが最後だった。飛行機は、シアトルに向かって飛び立った。当時、ベトナム戦争に出征する陸軍兵士達は総てシアトル近辺にある基地か、カリフォルニア州のオークランド基地から出立することになっていた。
私の経験では、軍人が移動する時には通常、民間機を利用する。そして、スチュワードさんたちはいつも私達軍人に愛想がよかった。この時もファースト・クラスの席が空いていたので、すぐに私の席を移してくれた。私が日本の国籍をもつ日本人で、ベトナム行きの命令が出ているのを知った美人のスチュワードさんは、あまり乗客がいなかった3時間の飛行中、「Why?」の質問攻めで私に話かけてきた。彼女には、なぜ日本人の私がベトナム戦争の最前線まで行かなければならないのか、私同様に不可解だったようだ。夜になってシアトルに着いた私は、基地内に入り上官に報告した。
写真:私の軍隊ユニフォーム
押入れから取り出してみると、亡き妻がきちんと手入れをしていてくれために、虫には食われていなかったが、引越しの時以来、袋に詰めていたので、しわくちゃになっていた。勲章やリボンはあまりないが除隊する時に、仕事の功績を表彰したメリトリアス・アウォードをいただいた(向かって左胸あたり)。階級は伍長。向かって右胸には、機関銃がエクスパートと、ライフルがマークスマンのメダルがある。右肩には、ヨーロッパのNATO軍参加の第8師団のインシグニア。両襟には歩兵部隊のインシグニア。両肩上(写真ではあまり鮮明ではないが)何かのピンが二つ。右上の二つの赤いリボンは、一つは戦闘訓練が終了するとくれるもので、もう一つは多分ヨーロッパに派兵された時にくれたもの。
※画像はHTのMUが❢
FC2ブログで掲載したもの❢
K先生は・・名誉の除隊であること❢
誇りに思っていました🌟
HTのMUにとって❢
今でも❢ お教室は❢
K先生と2人でしているという気持ちです🌟
・・を忍ぶ By M.O
December 31st, 2023🌟
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